大蓮寺は天文13年(1544)に小田原から行脚してきた覚誉存栄上人によって建てられた浄土宗のお寺です。
当時の浦安は江戸もまだ開けていない頃で、現在の江戸川河口の小さな漁師町でした。その町のはずれ境川のお堂に、行基大僧正という名僧が彫られた勢至菩薩像(せいしぼさつぞう)が奉られていて、そのあまりの見事さに覚誉上人が惹かれ、この勢至菩薩像を守るために小田原にあった自分のお寺と同じ名前の大蓮寺を創建したのです。
現在も開山堂に奉られている勢至菩薩像がその尊像で、火災に遭いながらもその姿をとどめており、安産のご祈願のお参りに多くの方が訪れます。
第5世頓誉上人は、段々整備されていく大蓮寺のご本尊仏として、本家の小田原から立派な阿弥陀如来の坐像を貰い受けました。これは恵心僧都御作と伝えられるもので、現在のご本尊様です。
大蓮寺が大きく変わったのは、第5世住職の弟子で、浄土宗の大本山である芝・増上寺の第39世住職となり大僧正になられた学誉冏鑑上人(げいかんしょうにん)の頃です。
学誉冏鑑上人は幼時に世話になった大蓮寺の興隆を思い、常念仏資糧田として四町八反(およそ15000坪)を寄付されました。
この学誉冏鑑上人の報恩のために梵鐘を作り鐘楼が建立されました。現在の鐘楼は明治16年に再建されたものです。
境内山門脇にある「久助稲荷」は、もとは小田原の大蓮寺に祀られている福徳稲荷の分身として建立されました。
学誉冏鑑上人が増上寺の大僧正だった頃、ある時庭先に大蓮寺にいたときに仕えていた忠僕の久助が立っていました。久助は大蓮寺の稲荷が荒れ果ててしまったため、上人に復興を頼みました。
上人は早速京都伏見稲荷から正一位の官位を受け、それに建設費を添えて大蓮寺に送りました。
ところが、久助は20年前にすでに亡くなっており、稲荷様の身代わりとなって現れた久助の志に深く感動した上人は、その名を取って「久助稲荷」と名付けました。
現在も、毎年5月18日には大祭が開催されています。
第9世勧誉上人、第10世教誉上人の頃には、次第に境内の景観を整備し、本堂、庫裡、表門、裏門、勢至堂、稲荷社、神楽殿、書院、鐘楼等が次々に出来上がりました。
裏門は大名黒田藩江戸屋敷の黒門を移築したもので、今から300年前のものです。
明治16年に建立された鐘楼堂は、太平洋戦争の際の金属献納運動によって昭和18年に梵鐘を供出しましたが、戦後新しく鋳造され現在の梵鐘が完成しました。浦安市内では唯一の鐘楼堂なので、大晦日には除夜の鐘をつきに多くの参拝客が訪れます。